散髪帰りに出島を歩いてみた

出島

実家から長崎に戻った後,散髪に行きました。大分から長崎まで,電車で4時間以上かけて帰った後に,髪を切りに行くという楽しくもない面倒な行為をするのは本当に気分が乗らなかったのですが,身だしなみという点で仕方ありません。

路面電車

ガタガタと路面電車に揺られて築町へ。路面電車は安くて便利なんですけど,乗り心地が最悪ですし,乗車マナーもそんなに良くない。さすがに1年も住めば慣れてきますが,こちらに来たときは小さなストレスの一つでした。

餃子

予約をした時間まで40分以上あったので,電停近くの『餃子の王将』へ夕食を食べに行きました。昼食を食べてなかったので,空腹も凄かったしね。

天津飯

美容室に行く前に餃子なんか食って良いのかな?って少しは考えましたが,まぁ食欲の方が大きかったですね。

学生時代は天津飯と餃子を良く注文してたなぁと思い返していました。あの時は週一以上のペースで行ってたけど,今は月一も行かないもんなぁ。

髪を切った後,王将で摂取したカロリーを消費するために少し歩きました。

出島神学校

出島が無料開放されていたので,中を通り抜けることに。全く知らずに行って,偶然に無料開放されていたから少し嬉しくなりました。

出島

再現した建物。

出島

暗かったし,眠かったので,看板とか案内とか全く見てません。小さな三脚も持って来てなかったので,水平っぽいスペースで適当に撮影。

光跡

出島を出た後,長崎駅前までプラプラと歩きました。車が少ないから歩きやすいけど光跡は残念ですね。

長崎駅前からまた路面電車に乗って帰宅。帰りは空いていたのでゆっくりできました。

投稿日:

甘い罠。

めせもあ。を初めて知った日に

学校から帰って来た、Kるんに聞いた。

めせもあ。って知ってる?

 

「知ってる。だって、モー娘。好きに

なったのは、むすめん。の踊ってみた動画を

見たからだよ。」

 

そうだったのかぁ。

ちなみに、むすめん。っていうのは

めせもあ。の改名前の名称です。

 

それで、その日から、あたしが

あまりにも、めせもあ。がとか

めせもあ。のとか

あおいくんがとか

トラライ。がとか言い出したから

もう、Kるんの顔を見れば

その話しかしないから

 

Kるんも、めせもあ。の甘い罠に

はまっちゃった♪

以前は、ただモー娘。の踊ってみたの人たち

という認識しかなかったらしいけど

最近は、野崎さんとぷんちゃん推しになったらしい。

 

あたしは、あおいくん推し寄りの

箱推しってことで。

この人には興味がないって思うメンバーが

いない。

ステキないいチームだなぁって思う。

いいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿日:

旬を感じる~秋鮭釣り初体験~

 

9月に入り、北海道では秋鮭釣りが解禁になりました。

私の周りでも、どこで何匹釣れた―とか、どこが釣れるらしい―、なんて会話がとても増えました。こんなに身の回りに釣り好きがいるんだなー。

 

私といえばこれまで釣りをしたことがなく、興味を持ったこともありませんでした。たまたま知り合いに鮭釣りの道具が2セット持っている人がいて、今回一緒に連れて行ってもらうことになりました。

 

出発はなんと夜中の2時。大体2時30分くらいから場所取りを兼ねて釣り場所に行き仕事に間に合うように6時30分くらいまでやっているらしい。

 

2時20分頃、現場に到着しましたが真っ暗で何も見えません。かろうじて頭にライトをつけて歩いているのでなんとか前は見えますがテトラポットの上を歩くので結構不安定。

 

釣りポイントについて早速竿を振ってみますが、なかなか狙い通りにいきません。その上、時間が経つにつれ、釣り人達がどんどん集まってきて20人くらいが1m毎に並んで皆が竿を振ります。

絡まったり、投げ損ねたりを繰り返しているうちに転びました。その拍子に帽子が海へ流されてしまいました。踏んだり蹴ったり。

4時間程振り振りして、結局今日は全く釣れず!!悔しい!!

9月の目標は

『秋鮭のメスを釣り自分で筋子の醤油漬けを作って、筋子の食わず嫌いを克服する』

に、決まりました。

 

釣れなかったうっぷんを、スラックラインに思い切りぶつけました。朝から活発に動き回ったせいか、今日は元気一杯です。

 

 

 

 

投稿日:

YouTubeで聞く世界の古代音楽

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現代によみがえる古代の音楽

 たしか論語だったと思うのですが、漢文の授業でこんな話があったのを覚えています。

孔子が斉の国に滞在していた時、韶の音楽の演奏を聞く機会があった。孔子は「音楽が人の心をここまで揺さぶるとは」と大変感動した。あまりに感動しすぎたので3か月近く呆然として過ごし、肉の味も分からないほどであった。

 一説によると、孔子が聞いた韶の音楽とはいくつも銅鑼を並べて奏でる、一種のパーカッションだったそうです。孔子を感動させた古代中国のパーカッション音楽とはどういったものか、すごく気になりますね。

音を後世まで残すのは至難の技だったに違いありませんが、実際に古代の音楽のいくつかが現在でも再現されて、聞くことができます。

 

 

1. 「フルリ人の賛美歌」(シリア)紀元前1400年頃

www.youtube.com

ドレミ調の音階で作曲された3,400年前の曲

フルリ人は紀元前25世紀ごろから北メソポタミア、アナトリア東部に居住した民族で、有名なミタンニ王国を建設したのも彼らです。

1955年にシリア西部ウガリットで発掘された石板のかけらには、フルリ人が残した数々の情報が掘られていましたが、その中に3,400年前のものと考えられる讃美歌の楽譜が含まれていました。

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この讃美歌は果樹園の女神ニッカール(Nikkal)に捧げられたもので、作者名は伝わっていませんが、タブレットには「ドレミ」調の音階の指示がついてどのように奏でるかも描かれており、現在でも再現可能なほど正確です。

女神に捧げられたものらしく壮大で優雅な曲です。現代でも全然通用しますね。素晴らしい。

 

 

2. 「インハーホーイのハープの歌」(エジプト)紀元前1160年頃

www.youtube.com

ハープで奏でて歌う古代エジプトの弾き語り

古代都市テーベの王の墓の中から、愛の詩と歌が発見されました。紀元前1160年頃のものと考えれています。

この歌はハーブの弾き語りのようなもので、曲は残っていないのでどんなメロディーだったかは分かりませんが、残された歌からどのように歌われたのかを推察したのが上記の動画です。

一般的には古代エジプトでは「楽譜」というものが存在しなかったとされており、曲が失われているケースが多いようです。となると、楽器を弾けるのは特殊技能ということになり、先祖代々、曲と共に受け継がれるものだったのかもしれません。

 

 

3. 「ベス・ガゾ」(シリア)2世紀頃

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シリアに残る初期キリスト教の音楽

ベス・ガゾ(Beth Gazo)は初期キリスト教の音楽集で、約1800年前に成立したものです。

曲は古代アラビア語の方言が用いられ、これはイエス・キリストが話していた言葉に非常に近いと考えられています。シリア正教会の司祭には、この古い言葉を読めて、メロディーと曲を組み合わせて歌うことができる人物がいるそうで、彼らによっていくつかの初期キリスト教徒の音楽が復活しました。

元々ベス・ガゾには数千もの曲が含まれていたそうですが、現在に残っている曲はわずか700で、また完全にメロディーまで再現できているのはわずか4曲に過ぎないそうです。

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4. 「聖ボニファティウスへの聖歌」(ドイツ)900年頃

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ヨーロッパのごく初期の多声音楽

ポリフォニー(多声音楽)は、ヨーロッパでは中世に始まりルネサンス時代に流行したスタイル。それまでは音楽と言えばモノフォニー(単一の旋律だけの音楽)でしたが、複数人で歌うポリフォニーの発明によってヨーロッパの音楽を大きく発展させることになりました。

従来、ウィンチェスター・トロッパーと言う名で知られる楽曲集が最古と考えられていましたが、大英博物館でそれよりも100年近く古いポリフォニーの曲が見つかりました。それがドイツの聖人「聖ボニファティウス」に捧げた聖歌です。

いつの時代のものかって聞かれても分かりませんね。今でも普通に歌われていそう。

 

 

5. 「デルポイのアポロンへの讃美歌」(古代ギリシア)紀元前128年

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作者名まで分かっている古代ギリシアの讃美歌

1893年にフランスの考古学者が、ギリシアのデルポイ神殿で2つの讃美歌を発掘しました。紀元前128年に作曲されたもので、音楽の神アポロンに捧げられたもの。

前半と後半があり、前半には歌詞がありますが後半は楽器だけで、そのどちらも作者名まで分かっています。前半はアテニオスという男の息子でアテニオスという名で、後半はトニノスという男の息子のリメニオスという名です。

いかにも古代の音楽という感じで、ロマンを感じるいい曲です。

 

 

6. サーマ・ヴェーダ(古代インド)紀元前2000年頃

www.youtube.com

古代インドの英知が結集された讃美歌

サーマ・ヴェーダは、バラモン教の聖典のヴェーダの一つで、祭祀の際に歌われる讃美歌を集めたものです。

古代アーシャの言葉で歌詞が書かれており、約4000年前に始まり、紀元前1200~1000年の間に体系化されました。

その多くは聖典「リグ・ヴェーダ」と、その他様々なヴェーダから文献を参照しており、その内容は宇宙観や神話が含まれており、当時の英知を結集したものです。

サーマ・ヴェーダはインドの古典音楽の基礎を成しており、後世のメロディーや歌詞に大きな影響を与えました。インド音楽史をたどる上で非常に貴重。

確かに、聞いただけですぐ、インドの音楽って分かりますね。

 

 

7. セイキロスの墓碑銘(古代ギリシア)紀元前2世紀

www.youtube.com

完全な形で残っている世界最古の楽曲 

「セイキロスの墓碑銘」は、現在のトルコの町アイドゥンで発掘された墓石に刻まれた歌詞。この歌詞にの行間には音符による旋律の指定まであり、推測が一切なく完全な形で再現できる世界で最古の曲なのだそうです。

この墓の主はセイキロスという男で、彼が自分が作詞作曲した曲を「永遠に残るように」と自分の墓に刻み込んだものです。

歌詞は以下の通り。

生きている間は輝いていてください
思い悩んだりは決してしないでください
人生はほんの束の間ですから
そして時間は奪っていくものですから

…何だか泣けてきます。

 

 

 

まとめ

孔子じゃありませんが、古代の人々が聞いていた音楽をこうやって聞けるのは何とも感動的です。

長い時間を乗り越えて残ったものですから、普通の曲と厚みや格が違うというか。

是非ゆっくりお聞きください。

 

 

参考サイト

Samaveda - Wikipedia

"10 Ancient Songs And Their Modern Mysteries" LISTVERSE

投稿日:

二時間だけのバカンスfeaturingすもも林檎

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ドンキホーテで購入した大量の皮付きのさきイカを

お皿に入れてつまみながら、

優雅にビールを飲んでいたら、

両足の真ん中に好奇心溢れる顔がズームイン。

 

 

 

 

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お前もさきイカが好きなのか。

 

ごめんね、匂いだけぷんぷん匂わせて。

 

 

 

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内定をもらってからとりあえず取り組んだことは、修羅場になっていた家の中の掃除!

掃除はある程度進み、少し余裕が出てきたので、

久しぶりにピアノを弾いたり、ウクレレを弾いたり、歌ったり。

 

 

 

 

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そして、ずっとやってみたかったことを、今週やりました。

 

それは、平日の昼、市民プールに行くことです。

会社を辞めてからずっと心の中に秘めていた夢。

入社する前に必ずやってみようと思って。

 

到着してすぐ飲み物を飲みながら、高ぶる気持ちを落ち着かせる。

 

 

 

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平日の昼。この閑散な雰囲気、いいね~。

もしかして夏休みで子供が多いかなと心配していましたが、あまりいなかったです。

 

プールの中を外から見下ろしたら、泳いでいる人は少なく、見張っている人(安全関係の人)が思ったより多くてなんだか緊張してきました。

 

ひとりできた泳げない人が挙動不審にプールの中をうろうろしていたら、つかまるんじゃないかなと。

でも、概ね大丈夫でした。

 

 

 

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2回、見張っている人が私にルールを教えにきましたが^^;

片道レーンに真ん中から入っちゃダメ~と、途中で休んじゃダメ~

ということが分かりました。

 

帰り道にはもう夕方になっていて、

ぬるい空気の中、気持ちよく自転車を漕いで帰りました。

 

二時間だけのバカンスは、400円しかかかりませんでした。

ビート板は無料でした。

 

 

 

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アキは、大好きなヨドバシ箱のなかでバカンスを過ごし、

 

 

 

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今日は今年初めてのスイカを。

大きいのに、業務スーパーでなんと800円。安い~

 

 

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マシューは、スイカよりキャベツの千切りに興奮している模様。

 

 

 

 

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夫は塩をかけて食べていましたが、

私は何もかけない派。

 

 

 

 

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こりゃ、美味ですね。

 

と言いながら、マシューも食べていました。

 

 

 

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夏もそろそろ終わりに近づいてきてますね^^

 

 

 

※タイトルは、こちらの曲のタイトルをお借りしました

 

 

お題「夏休みの計画」

投稿日:

なぜアンコール・ワットは密林に埋もれたのか

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なぜ壮大な寺院・都城は忘れ去られたのか

アンコールワットの遺跡群は我々を魅了してやみません。

ご覧になっている方の中にも観光で訪れた人もいるでしょうし、いつかは行ってみたいとお思いの方もきっと多いでしょう。

19世紀にアンコールワットを西洋に紹介したフランス人も興奮気味にこう語っています。

西欧の最高の大聖堂と堂々と肩を並べられよう。それに雄大さにかけてはギリシア・ローマ芸術が造り上げた何物にも勝る。

(アンリ・ムオ「シャム・カンボジア・ラオスの諸王とインドシナ中央部の小さな国々」)

ではなぜこのような寺院・都城は作られ、そして密林の中に埋もれて忘れ去られてしまったのでしょうか。

 

 

1. アンコールの地理と経済

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カンボジアは未だに人口の70%が農民でGDPの30%を農業が占める農業国です。

昔から農業はカンボジアの基幹産業であり、いかに農業地と農業インフラを充実させるかが国の重要課題であり、アンコール王権の拡大のためにも重要でした。

というのも、アンコールの大地は「農業にあまり適さない土地」であったためです。

 

この地方の土壌の大部分が水はけがよい砂質土。

そして砂質土の下には粘土層があり、降った雨は地下に染み込みすぐに流れてしまいます。

雨には比較的に恵まれた土地で、平均降雨量は1300ミリ〜1800ミリ程度で日本と同水準ですが、雨季と乾季がはっきりと分かれています。6月〜11月の雨季は毎日うんざりするほど雨が降りますが、12月〜5月の乾季はほとんどと言っていいほど降らない。

乾季にも農業を続けるには雨季に降った雨を貯蔵する水利インフラが非常に重要だったのです。

歴代のアンコールの王は流水・河川をコントロールする貯水池や水路・運河を建設する土木事業を成功させ、田地に給水させて農業経済を発展させることで王権を維持していました。

さらに水路や運河の建設は、首都と遠隔地を結び政治的統合を維持するためにも重要だったし、各地からの物産を集約してインドや中国との交易にも活用されていました。

 

つまり、アンコールの壮大な寺院・都城の建設が可能だった理由は、大規模な水利インフラ開発の成功で経済発展に成功し、大量の人口を抱えることができたためでありました。

勿論、寺院の建設はアンコール王権の神性や権威の永続性を目的としていましたが、経済発展と地域開発と表裏の関係でありました。

 

 

2. 脆弱なアンコールの王権

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現在でもカンボジアの人々は国王が大好きで、前国王のシハヌーク殿下や現国王のシハモニ殿下は国民の絶大な信頼があります。

国民の国王好きは伝統的なもので、アンコールの王はシヴァ神などのヒンドゥーの神の化身であり「現人神」と考えられてきました。

そのため歴代の国王は「王の使命」としてこの世に「神の世界」を実現する必要がありました。その手段の一つが「壮麗な寺院や都城の建設」であったわけです。

 

では歴代の王は同じ血脈を連綿と受け継いでいたかというと全くそうではなく、アンコールの王権は「完全実力主義」で、激しい王位争奪戦を繰り広げ、実力で玉座に座った者が国王となっていました

歴史書を見ると、スールヤヴァルマンとかジャヤヴァルマンとか同じような名前が続くのでパッと見は王家があるように思えるのですが、実のところその血脈は全然つながっていないようなのです。

前王が死ぬと、王の親族や宮廷の実力者、地方の豪族などで才覚がある者が派閥を糾合してライバルとの内乱を制し、前王妃や皇女と形式的に結婚することで、系譜的に繋がりを正当化し王位を簒奪していました。

 

反国王の内乱は頻繁に起こり玉座は不安定であったため、歴代の王たちは有力者や民衆の支持を得るために、大規模な水利インフラ工事を行い富をもたらし、王権の偉大さを提示するために前王達よりももっと壮麗な寺院や都城を建設してその威光を見せつける必要があったわけです。

絶対的な権力があったから作られたのではなく、権力が不安定だったから作られたというわけなのですが、とはいえアンコールワットのような大規模な建築物を作るには相当な強権が必要であったことに変わりはありません。

 

 

3. アンコール・ワット建設開始

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アンコール王朝の拡大

 アンコール王朝の初代国王はジャヤヴァルマン2世という人物で、元々はジャワ地域にいましたがカンボジアに帰国し南部の豪族を恭順させながら790年ごろアンコール地方を平定。802年に「クメール諸王の中の王」を宣言し、王位に就きました。

現在のシェムリアップに大規模な王都が建設され始めたのが、第4代国王ヤショヴァルマン1世の時代で、この地にある3つの小山(プノン・ボック、プノン・バケン、プノン・クロム)を須弥山(ヒンドゥーの神話で神々が住む)に見立て、世界を統治する神々の都城の建設を推進しました。

ヤショヴァルマン1世が建設した王都「ヤショダラプラ」は、後にアンコール・トムが建設された時に埋められてしまったためどのようなものか分かっていません。

しかし、現在も存在するプノン・バケン寺院は当時のまま残っていると考えられています。

 

▽プノン・バケン寺院の頂上から夕日を見る人々

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▽プノン・バケンからの夕日

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スールヤヴァルマン2世によるアンコールワット建設

1080年に王位を簒奪したジャヤヴァルマン6世は北部カンボジア勢力の出身で、1106年ごろから前王ハルシャヴァルマン3世の勢力を追い出しアンコール統治を開始しますが、すぐにダラニンドヴァルマン1世に都を追い落とされ、前前王のハルシャヴァルマンと現王ダラニンドヴァルマンの内乱が勃発します。この戦いで頭角を表したのがダラニンドヴァルマン1世の姪の息子スールヤヴァルマン2世。

彼は内乱に打ち勝ち1113年に国王に即位し、抵抗する地方勢力を平らげて30年ぶりに国内を統一。対外戦争も拡大し東はチャンパ王国、西はチャオプラヤ川上流域にまで攻め込み、さらに大越(ダイヴェト=ベトナム)にも侵攻。大いに国勢を高めたのです。

そして偉大な王はその名誉と威光を完全なものとすべく、アンコール・ワットの建設を開始。

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王は30年かけてこの寺院を建設したのですが、いったいどのくらいの人夫が働いていたのか。

フランス極東学院の専門家の試算によると、作業員は16歳〜45歳までの男性で、1日7時間の労働と仮定して、石工3,000人・彫工1,500人・仕上げ工4,000人・運搬人15,000人・作業補助を加えて合計25,000人が1日7時間働いて35年間かかる計算だそうです。

これだけの人が働くための食料生産や住居建設などの関連産業含めると15万~20万の背景人口が必要になるとのことです。

それら労働人口が扶助する女・子ども・老人も当然いたでしょうから、当時のアンコールの人口はその3倍近くはあったでしょうね、きっと。

 

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4. アンコール王朝混乱期

スールヤヴァルマン2世の死後、アンコール王朝は内乱期に入ります。

数人の王が相次いで王位を簒奪し混乱が続き、それに乗じて東のチャンパ王国が1177年にアンコールに侵入。チャンパ国王ジャヤ・インドラヴァルマン4世はアンコールに傀儡王を建てて属国とし、以降20年間チャンパ王国の支配に甘んじました。

その後ジャヤヴァルマン7世がチャンパの支配を脱し、逆にチャンパに攻め入って長い期間の間に襲撃を重ね、再起不能なほど破壊しつくしました。

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ジャヤヴァルマン7世は首都アンコールを復興し、新たな都城としてアンコール・トムを建設。

新都城の中心には、須弥山に見立てたバイヨン寺院がそびえます。

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ジャヤヴァルマン7世はアンコール王朝で初の仏教徒の王であったため、バイヨン寺院も仏教寺院として建設されています。四面像の「クメールの微笑」は非常に有名ですね。

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ジャヤヴァルマン7世は建築狂と言っていいくらい様々な寺院や僧院を建築し、王国の永遠なる安泰と発展を願ったわけですが、1220年の王の死後からアンコール王朝はまた混乱状態に陥っていきます。

 

アンコール王都の放棄

11世紀〜12世紀にかけて、中国南部からタイ民族が南下し、クメールを圧迫し始めました。

タイの一部族ラーオ族がメコン川上流にラオスを形成し、タイ人はチャオプラヤ中流域にスコータイ王国を建国。次第に南方・東方にまで勢力を拡大していきます。

1370年に発生したタイからの攻撃によりアンコールは陥落。クメールの王たちはアンコールを棄てて首都を南部のバサンに移しました。それでも一部の王族はアンコールに居住していたようですが、1431年には完全に放置され廃墟となってしまいました。

 

1526年に即位した国王アン・チャン1世は、1550年ごろに王国内の森深くに象狩りに出かけ、その途中に100年以上放置されたアンコール旧王都を再発見しました。

この頃には既に寺院や都城は森に飲み込まれていましたが、アンコール・ワットだけは地元の住民の仏教聖地となっていたので、王は寺院の修復を命じました。

1576年に即位したサータ1世は、タイの侵攻に備えて再び旧都に住民を移し、自らもアンコールに居を構えますが、タイのアユタヤ朝が1593年に再度カンボジアに侵入。

首都ロヴェックは陥落し徹底的に破壊されてクメールは回復不可能なほどのダメージを受け、以降アンコールは放置されるがままになってしまったのでした。

 

 

5. なぜアンコールは放棄されたのか

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アンコールが放棄された理由は、クメールがタイとの戦争に相次いで敗れ国力が落ちたこともありますが、主たる理由は「経済発展の行き詰まり」と考えられています。

 

11世紀の時点でアンコール平原は田地化され、全ての河川が灌漑化され開発され飽和状態になってしまい、さらなる経済発展のためには周辺部にさらに耕地を拡大する必要がありました。そこでトンレサップ湖西岸が新たに開拓され、水路が張り巡らされ道路や灌漑地が次々と建設されました。

 

しかし12世紀になると、これまで構築してきた水路や運河の底に少しずつ溜まってきた土砂や泥が、水の流れを止めるようになってしまいました。

メンテナンスが必要な水路や運河はあまりにも多く泥は大量で除去は不可能。かといって新たに水路を掘るスペースもない。

水の循環が止まった耕地は放棄されて荒れるがままになっていきました。

 荒れた土地は灼熱の太陽に長い間さらされ水分が蒸発し、水中の酸化鉄の濃度が高まって浮上。土壌が酸化して田地はもはや耕作不能な状態に陥る。

アンコール平原の農業生産高は坂を転がるようにして下落し、農民は土地を捨て逃げ去っていき、労働人口の無くなったアンコールには食料生産はもちろん、大寺院をメンテナンスすることも不可能になっていきました。

こうしてアンコール寺院や都城は密林の中に埋もれ、忘れられていったのでした。

 

 

 

まとめ

 ぼくもアンコール遺跡は行ったことがあるのですが、あの密林がかつては大農業地帯であったなど全く信じられません。

あちこちにため池や運河が残っており、かすかにかつての農業地帯の痕跡が残るのみです。

17世紀にアンコール・ワットを訪れた日本人・森本右近太夫は、ここが「祇園精舎」だと信じていたようですが、まさに平家物語で描かれたように「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」といった感があります。

 

 

参考文献

 アンコール・ワット - 大伽藍と文明の謎 講談社 石沢良昭

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投稿日:

イスラエル・パレスチナにおける注意喚起(安全対策等)

7月エルサレム旧市街周辺を中心にヨルダン川西岸地区でも衝突等事案が断続的に発生しました。情勢は依然として流動的な情勢であり、エルサレム旧市街(特に、ライオン門、ダマスカス門等付近)、東エルサレム、及び西岸地区の検問所付近等では、衝突事案等の突発的な発生が、引き続き懸念されます。特に金曜日の礼拝(12:30〜13:30)後の時間帯は注意して下さい。

1 注意事項

(1)衝突や暴力事案が発生する可能性のあるエルサレム旧市街、特にアルアクサ-・コンパウンド(神殿の丘)及びその周辺地域のライオン門やダマスカス門、東エルサレム、及びヨルダン川西岸地区内各所に設置のイスラエル軍検問所付近等には近寄らない等、十分注意を払って下さい。

(2)テロの標的となりやすい路線バス、シェルート(小型乗合バス)、ライトレール(路面電車)の利用は極力避けて下さい。

(3)以下の場所に出入りする際は、十分注意して行動してください。

観光施設、観光地周辺の道路、記念日・祝祭日等のイベント会場、レストラン、ホテル、ショッピングモール、スーパー・マーケット、ナイトクラブ、映画館等の人が多く集まる施設。教会・モスク等宗教関係施設、公共交通機関、政府関連施設(特に軍、警察、治安関係施設)等。

(4)海外安全情報(外務省海外安全ホームページ参照:http://www.anzen.mofa.go.jp/)に従い、レベル3(渡航中止勧告)に指定されている地域には近寄らないで下さい。

(5)行動にあたっては、「巻き込まれ」の危険性に十分注意を払うとともに、海外安全情報(外務省海外安全ホームページ)の確認、当地報道及び在イスラエル日本国大使館ホームページ等から、最新の治安情報の入手に心がけて下さい。

2 最近発生した主な治安事案

(1)8月12日(土)午後、エルサレム旧市街ダマスカス門付近において、パレスチナ人女性がナイフにてイスラエル人男性を襲う事案が発生しました。これによりイスラエル人男性は負傷、犯人は国境警備隊により現場で逮捕されました。

(2)8月8日(火)夜、ガザ地区からロケット弾が発射され、アシュケロン市(ガザ地区境界より約10km)の開豁地に着弾しました。これによる被害はありませんでしたが、イスラエル国防軍がガザへの報復攻撃を行い、北西部及び西部のハマスの拠点2ヶ所を空爆、パレスチナ人3〜7名(報道によって異なる)が負傷しました。

(3)8月2日(水)午前、ヤブネ市(テルアビブ市南約20km)のスーパー・マーケットにおいて、ユダヤ人男性がパレスチナ人男性(ヘブロン出身少年)に刺され、重傷を負いました。犯人は現場で逮捕されました。

(4)7月24日(月)テルアビブ近郊のペタハ・ティクバのセントラル・バスステーション付近にて、ユダヤ人男性

がパレスチナ人男性に刺され、重傷を負いました。犯人は現場で取り押さえられました。

(5)7月21日(金)ラマッラ北西のハラミッシュ入植地にてパレスチナ人がイスラエル人住居に侵入し、住人を

ナイフで襲撃、3名が死亡、1名が重傷、犯人は現場で射殺されました。

(6)7月14日(金)、エルサレム旧市街「神殿の丘(アルアクサ−・コンパウンド)」敷地内にて、アラブ系イスラエル人3名がイスラエル国境警察官に対して発砲し、警察官2名が死亡、1名が負傷する事案が発生しました。犯人3名はその場で射殺されました。その後、エルサレム旧市街(「神殿の丘(アルアクサ−・コンパウンド)」、ライオン門、ダマスカス門等付近)、東エルサレム、及びヨルダン川西岸地区内各所のイスラエル軍検問所付近においてパレスチナ人とイスラエル治安要員との衝突事案等が多数発生し、多くの死傷者が出ました。

(7)6月24日(土)、28日(水)、シリア側から発射された迫撃砲弾がゴラン高原(イスラエル実効支配)の開豁地に着弾しました。これによる被害はありませんでしたが、これを受けてイスラエル国防軍による報復攻撃が実施されました。

3 問い合わせ先

在イスラエル日本国大使館 領事部  

電話:(03)695−7292

Email:本メールに返信下さい。ryouji@TL.mofa.go.jp

※お使いのアプリケーションによっては、返信出来ない場合があります。

その場合は、ryouji@TL.mofa.go.jp

に配信願います。

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以上

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【広域情報】ジカウイルス感染症に関する注意喚起

カメルーンにお住まいの皆様へ

ジカウイルスに関するお知らせを送ります。

世界保健機関(WHO)は、英領ケイマン諸島及びパプアニューギニアにおけるジカウイルス感染症の伝播状況に関するカテゴリーを変更しました。

カメルーンは「カテゴリー2」に入り,2015年以前にウイルス伝播が確認又は2015年以降新たに感染事例が報告され、中断なく感染伝播が起きている地域と指定されております。

詳細は以下のリンク先をご確認ください。

(PC)==> http://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcwideareaspecificinfo_2017C169.html

出発前には海外安全ホームページをチェック!

http://www.anzen.mofa.go.jp/

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Wataru ONODERA

E mail : wataru.onodera@mofa.go.jp

Cel:(237) 677.70.89.15

Ambassade du Japon

1513, Rue 1828, Bastos-Ekoudou, Yaounde, Cameroun (B. P. 6868)

Tel: (237) 2-2220-6202

Fax: (237) 2-2220-6203

http://www.cmr.emb-japan.go.jp/jp/index-jp.html

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